はりゆうの暗(あん)闇(あん)散歩

何が目的?どこへ向かう?夜中に犬散歩していて、ふと 思った気まぐれブログです!

ε-(´∀`; ) ギンしゃり

コンチワっす、はりゆうです。


昨晩は早々に雨が降りだしたので、犬散歩は夕方に娘と行ったので夜散歩は中止し、家でゆっくりTVを見てました。


年の瀬にふさわしく、特番が多くやってました。


昔話し

中二になる少し前に母親は弟を連れて家を出ました。そこからは、それまで呑んだくれていた親父の飲みに行く頻度が減りました。家族がバラバラになることって悲しそうな感じですが、結果的には平和な状況になって行ったので悲壮感はなく、こんな選択もありなんだとガキながらに思いました。

家に残った兄と二人、食い盛りの青春ど真ん中です。とにかく白米を求めてました。毎週、近所のスーパーに米を20kg買いに行ってました。ごはんが焚き上がると、ジャーの中で半分にシャモジで線を引き、兄の分と自分の分とで主張し合いました。兄が部活で遅くなると、その境界線をお替わりするたびに侵食してしまい、結局はひとりでジャー丸ごとを一食で完食。慌てて焚き直している間に兄が帰宅して怒られる、なんて事もしょっちゅうありました。100kgを超える中高生の兄弟を近所の人にはどう写っていたのでしょうか?考えるのも恐ろしいです。

大人になって帰省した際に実家のジャーを見て驚きました。一升焚きってあんなにデカいんですね。

エンゲル係数から考えても、当然いい米なんて与えられる訳もなく、標準米というタイトルのついた僅かな新米に古米・古々米が混ぜられたブレンド米を購入していました。食わせてもらっているので文句など微塵もなく感謝していましたが、たまに行く親戚の家で食べる白米が異常に美味しく、喜んで食べているのが顔に出てしまっていたのか?親戚の人から米の違いが分かる米博士と揶揄されたこともありました。

時代はバブル景気に湧く日本で、我々兄弟の腹も泡の如くに膨れ上がっていました。


大学進学のため上京した頃が食欲のピークだったと思います。米不足が深刻化し、タイ米なる輸入品に頼る必要があった時期がありました。

そんなとき、北陸地方から上京していたお友達が実家に招待してくれました。食卓に並べられたお茶碗を前に固まっていると、「遠慮なく、どんどん食べてくれ」と進められました。当時の自分はごはんをラーメン鉢で食べるのが普通だと思っており、一般的な茶碗のサイズを知らなかったので、食卓に置かれた茶碗は仏壇にお供えするものだと感違いしていました。


あの時に味わった、米の旨さ、美味さ、忘れられません。トリコのように髪が七色に輝いていたと思います。夢中でお替わりを何回もさせて頂きました。


・・・・銀シャリの優勝を見て、腹が減ってしまった夜でした。

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